2010年01月04日
自ら忙殺を望む
考える暇もないくらい没頭するものがあれば、
疎ましさは忘れられるかもしれません。
しかし、きっとそれは一時的に記憶の奥底に追いやるだけで、
安堵した一瞬に前よりも鮮明に蘇るような気がします。
残酷なくらいにその時間、空気、輪郭すらもはっきりわかるくらいに。
対症療法ではありますが、丁寧に暮らす、日々の決め事を完遂する、
つまりルーティンワークをこなすという、
極めて単調でありながら、
誰にでも平等にある時間をいかにして効率よく使うかという観点から
大変重要なワクチンを打ってみることにしました。
プラセボにならぬように、更に+αも決めました。
1月は毎週土曜に、西荻窪の旅茶箱にフル出場します。
(但し息子が病気の場合を除く)
そして平日は少しの間ですが働きます。
1月の方が師走らしいのは何故だろうと考えたら、
店に立つ初日が太陰暦では師走の始まりだったのです。
そういうことだったのか。
この不思議な一致を偶然と捉えるのか、必然とこじつけるのか。
必然であるとするならば、起因する事象も必然ではないのか。
それは確かにわたくしの手で放たれたものだったのだから。